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はじめての方もいらっしゃるかと思いますので、簡単に自己紹介をさせてください。
私は、1986年兵庫県に生まれ育ちました。
14歳(中学生)の時から8年間付き合った夫と22歳の時に結婚し
23歳で長男を出産しました。4270gの元気いっぱいの赤ん坊でした。
私は150㎝で小柄なので、小さいお母さんから大きな赤ちゃんが産まれたと
分娩室で無事に産まれた安堵とともにどっと笑いが起きました
そして離乳食は食べてくれない、夜泣きも多く、布団の上で何度寝かしつけても
気がつけば硬い床を好んで転がって寝ている・・・
私も夫も布団をかけるのに寝付けなかったので、
寒い冬はスキーウエアを着せて寝てもらった時期もありました
そんな違和感を感じながら、1歳半検診の時に
発達相談を受けるように言われ発達医療センターで発達検査を受けます
そして、長男が1歳11ヶ月の時に知的障害を伴う自閉症と診断されます。
私は25歳お腹には次男を身籠もっていました
療育を受けましたが、パニックやこだわりに悩む日々
4歳になってもベビーカーが好きで歩きたがらないので
必死に歩いてもらうよう促すと大泣きし出す長男
駐車場で火がついたかのようにギャン泣きするので心配して虐待を受けているのではないか
と虐待通報をされたことまでありました
同じ棟の方たちには引っ越しのご挨拶に1軒、1軒お伺いしていたのですが
隣の別棟の方まではご挨拶できていませんでした
翌日には心配して下さった別棟のご近所さんには菓子折りを持って
まずはお騒がせしてしまったお詫びと息子たちの障害のことを簡単に説明させていただきました
私が「うちの子は自閉症で・・・」というと、
「あ〜そうやったん!知らずにごめんね。うちも知り合いにおるから知っとるよ!
実は私、精神障害があって、通院しよるんよ。昨日は気持的にもしんどい日でごめんね」
すぐにご自身の状況も教えて下さいました
そこから仲良くなって、おかず作り過ぎたからと持ってきて下さったり
今となってはとても温かい思い出です
言葉が遅れている長男と全然コミュニケーションが取れず
夕暮れに次男をおんぶしながら、長男が乗ったベビーカーを押しながら散歩していると
女子中学生2人が楽しそうに会話をしながら通り過ぎていきます
息子とは一生あんな風に会話することが出来ないんだ
そんな考えが脳裏をよぎって途方に暮れ、涙が溢れ出ていました
そして、次男が3歳で知的障害と診断、三男も3歳で長男と同様に知的障害を伴う自閉症と診断されます
大変だけれども、私も夫も子供が好きで息子達が可愛かったのです
20代で若かったのもあり、日々の子育てをパワーで奮闘しながらも乗り越えてきました
そして、知的障害や自閉症には下記の支援が大切だということを知りました
・視覚的支援の重要性
・当事者に選んでもらう大切さ
・年齢の尊重をすること
・金銭管理も出来ること
・カームダウンエリアを設けたり、構造化をすること
正しい知識を身に付けることで育てにくかった息子達と
コミュニケーションもとれるようになり
今は落ち着いていきます
少しずつ余裕が出てきて、更にもっと成人後の様子を勉強したいと
知的障害者の成人施設で働くことを決意します。
施設では限定された職員しか対応が出来ない強度行動障害のある方の支援もさせていただきました
兵庫県のど田舎でしたが、市役所近くの一等地の土地を購入し
5SLDKのオール電化の注文住宅を両親に新築してもらいました
女の子が欲しいという気持ちがまだ残っていたので
2階に子供部屋が4部屋と4畳くらいの収納部屋に様式トイレ、
1階には小便器と洋式トイレが2つ、おもちゃの収納スペースも入れると28畳くらいあるLDK
駐車場は4台停められる広さで、子供たちが転落しないようにと2階のベランダをなくし、
1階に洗濯物が濡れないように、しかしリビングと連なっていると
湿気も気になるのでリビングとは分断したサンルームも設置しました。
固定資産税を払えばいいだけだったので少し生活に余裕がありました
しかし、その地域で園や教育委員会、小学校からの障害への無理解や差別により
長男が学校にも行けず、メンタルがボロボロになります
中には優しい先生やご近所さんにも本当に恵まれました
しかし、教育委員会の偏見や差別はとても根強かったのです
せっかく校区の支援学級に入学できたのに、現場教員の人権意識があまりに乏しく
現在住んでいる大阪とは雲泥の差でした
壁紙や家の間取り、時間をかけて建てた家には夫も思い入れがあります
仕事はお世話になっている職場にも迷惑をかけてしまいます
転居・転職について夫とも今までにないくらい大喧嘩をしましたが
最終的に腹を括って大阪へ転居を決意してくれたのです
母は強しです
私が決断しなければと、誰に何を言われようともどんな苦悩が待ち受けていようとも
子供達をこんな差別から守らなくてはいけないと確固たる決断は揺らぎませんでした
近所だったママ友がこんな立派な家を手放してまで?子供達のこと本当に考えてる??
真剣な表情で心配をしてくれました
支援員さんもうちの話を聞いて涙してくれます
最後に参加した小学校での学級懇談会、
大阪へ私が地元でみんなと子育てしたかったと号泣してしまいました
きっと私よりも重く受け止めて下さっていたんでしょう
今でも手紙やメッセージを定期的にいただきます
社長の自宅に呼んでくれて最後に家族で会った帰り
餞別にと10万円も包んで下さいました
たくさんの方にご心配をかけてしまったのに、感謝してもしきれません
忙しい時期だったのに、夫が退職することになって申し訳ない気持ちでいっぱいでした
もう6年近く前になりますが、ある程度落ち着いてから
ボロい中古マンションに住むことになってしまったけれど
当たり前に校区の学校へいける環境はすごく有難いという
大阪でのお土産話と共にその10万円はお返しに家族で社長のお宅へ遊びに行かせていただきました
偏見や差別を受けたりいろんなことがありましたが、
私は2023年に待望の女の子を授かることができました
IT業界でフルタイム勤務をしながら発達凸凹な4児の子育てをしています
そして、夫は現在は放課後等デイサービスの児童指導員をしています
なぜ私は長女を出産しようと思えるほど障害受容ができ、乗り越えられたのか?
どんな支援をしたらパニックや自傷他害が激減するのか?
療育ではまず教えてもらうことのないコツがあるんです
それをオンライン開催をしてますので、ご参加ください!